第四章
夏休みのあいだに大学の機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生の全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じようなことをやっていたし、特に珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてはしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。彼らは大学という機構のイニシアチブの変更を求めていただけだったし、僕にとってはイニシアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからストがたたきつぶされたところで、特になんの感慨も持たなかった。
僕は九月になって大学がほとんど廃墟と化していることを期待していってみたのだが、大学はまったく無傷だった。図書館の本も略奪されることなく、教授室も破壊しつくされることはなく、学生課の建物も焼け落ちてはいなかった。あいつら一体何してたんだと僕は愕然とし思った。
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊るし上げたのだ。僕は彼らのところに行って、どうしてストを続けないで講義にでてくるのか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を呼んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。
僕はしばらくのあいだ講義に出ても出席をとるときには返事をしないことにした。そんなことをしたって何の意味もないことはよくわかっていたけれど、そうでもしないことには気分がわるくて仕方がなかったのだ。しかしそのおかげでクラスの中での僕の立場はもっと孤立したものになった。名前を呼ばれても僕が黙っていると、教室の中には居心地のわるい空気が流れた。誰も僕に話しかけなかったし、僕も誰にも話しかけなかった。
九月の第二週に、僕は大学教育というのはまったく無意味だという結論に到達した。そして僕はそれを退屈さに耐える訓練期間として捉えることに決めた。今ここで大学をやめたところで社会に出てなんかとくにやりたいことがあるわけではないのだ。僕は毎日大学に行って講義に出てノートを取り、あいた時間には図書館で本を読んだり調べものをしたりした。
※
九月の第二週になっても突撃隊はもどってこなかった。これは珍しいというより驚天動地の出来事だった。彼の大学はもう授業が始まっていたし、突撃隊が授業をすっぽかすなんてことはありえなかったからだ。彼らの机やラジオの上にはうっすらとほこりがつもっていた。棚の上にはブラスチックのコップと歯ブラシ、お茶の缶、殺虫スプレー、そんなものがきちんと整頓されて並んでいた。
突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半のあいだに、部屋を清潔にすることは僕の習性の一部となっていたし、突撃隊がいなければ僕がその清潔さを維持するしかなかった。僕は毎日床を掃き、三日に一度窓を拭き、週に一回布団を干した。そして突撃隊が帰ってきて「ワ、ワタナベ君、どうしたの?すごくきれいじゃないか」と言って賞めてくれるのを待った。
しかし彼は戻っては来なかった。ある日僕は学校から戻ってみると、彼の荷物は全部なくなっていた。部屋のドアの名札も外されて、僕のものだけになっていた。僕は寮長室に言って彼がいったいどうなったのか訊いてみた。
「退寮した」と寮長は言った。「しばらくあの部屋はお前ひとりで暮せ」
僕はいったいどういう事情なのかと質問してみたが、寮長は何も教えてくれなかった。他人には何も教えずに自分ひとりで物事を管理することに無上の喜びを感じるタイプの俗物なのだ。
部屋の壁には氷山の写真がまだしばらく貼ってあったが、やがて僕はそれははがして、かわりにジム?モリソンとマイルス?デイヴィスの写真を貼った。それで部屋は少し僕らしくなった。僕はアルバイトで貯めた金を使って小さなステレオ?プレーヤーを買った。そして夜になると一人で酒を飲みながら音楽を聴いた。ときどき突撃隊のことを思いだしたが、それでもひとり暮らしというのはいいものだった。
*
月曜日の十時から「演劇史Ⅱ」のエウリピデスについての講義があり、それは十一時半に終わった。講義のあとで僕は大学から歩いて十分ばかりのところにある小さなレストランにいってオムレツとサラダを食べた。そのレストランはにぎやかな通りからは離れていたし、値段も学生向きの食堂よりは少し高ったが、静かで落ちつけたし、なかなか美味いオムレツを食べさせてくれた。無口な夫婦とアルバイトの女の子が三人で働いていた。僕は窓祭の席に一人で座って食事をしていると、四人づれの学生が店に入ってきた。男が二人と女が二人で、みんなこざっぱりとした服装をしていた。彼らは入口近くのテーブルに座ってメニューを眺め、しばらくいろいろと検討していたが、やがて一人が注文をまとめ、アルバイトの女の子がにそれを伝えた。
そのうちに僕は女の子の一人が僕の方をちらちらと見ているのに気がついた。ひどく髪の短い女の子で、濃いサングラスをかけ、白いコットンのミニのワンピースを着ていた。彼女の顔には見覚えがなかったので僕がそのまま食事を続けていると、そのうちに彼女はすっと立ち上がって僕の方にやってきた。そしてテーブルの端に片手をついて僕の名前を呼んだ。
「ワタナベ君、でしょ?」
僕は顔を上げてもう一度相手の顔をよく見た。しかし何度見ても見覚えはなかった。彼女はとても目立つの女の子だったし、どこかであっていたらすぐ思い出せるはずだった。それに僕の名前を知っている人間はそれほどたくさんこの大学にいるわけではない。
「ちょっと座ってもいいかしら?それとも誰かくるの、ここ?」
僕はよくわからないままに首を振った。「誰も来ないよ。どうぞ」
彼女はゴトゴトと音を立てて椅子を引き、僕の向かいに座ってサングラスの奥から僕をじっと眺め、それから僕の皿に視線を移した。
「おいしそうね、それ」
「美味しいよ。マッシュルーム?オムレツとグリーン?ビースのサラダ」
「ふむ」と彼女は言った。「今度はそれにするわ。今日はもう別のを頼んじゃったから」
「何を頼んだの?」
「マカロニ?グラタン」
「マカロニ?グラタンもわるくない」と僕はいった。「ところで君とどこであったんだっけな?どうしても思い出せないんだけど」
「エウリピデス」と彼女は簡潔に言った。「エレクトラ。『いいえ、神様だって不幸なものの言うことには耳を貸そうとはなさらないのです』。さっき授業が終わったばかりでしょう?」
僕はまじと彼女の顔をみた。彼女はサングラスを外した。それでやっと僕は思い出した。「演劇史Ⅱ」のクラスで見かけたことのある一年生の女の子だった。ただあまりにもがらりととヘア?スタイルが変わってしまったので、誰なのかわからなかったのだ。
「だって君、夏休み前まではここまで髪あったろう?」と僕は肩から十センチくらい下のところを手で示した。
「そう。夏にパーマをかけたのよ。ところがぞっとするようなひどい代物でね、これが。一度は真剣に死のようと思ったくらいよ。本当にひどかったのよ。ワカメがあたまにからみついた水死体みたいに見えるの。でも死ぬくらいならと思ってやけっぱちで坊主頭にしちゃったの。涼しいことは涼しいわよ、これ」と彼女はいって、長さ四センチか五センチの髪を手のひらでさらさらと撫でた。そして僕に向かってにっこりと微笑んた。
「でも全然悪くないよ、それ」と僕はオムレツのつづきを食べながら言った。「ちょっと横を向いてみてくれないかな」
彼女は横を向いて、五秒ぐらいそのままじっとしていた。
「うん、とても良く似合ってると思うな。きっと頭のかたちが良いんだね。耳もきれいにみえるし」と僕はいった。
「そうなのよ。私もそう思うのよ。坊主にしてみてね、うん、これも悪くないじゃないかって思ったわけ。でも男の人って誰もそんなこと行ってくれやしない。小学生みたいだとか、強制収容所だとか、そんなことばかり言うのよ。ねえ、どうして男の人って髪の長い女の子がそんなに好きなの?そんなのまるでファシストじゃない。下がらないわよ。どうして男の人って髪の長い女の子が上品で心やさしくて女らしいと思うのかしら?私なんかね、髪の長い下品な女の子二百五十人くらい知ってるわよ。本当よ。」
「僕は今のほうがすきだよ」と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。髪の長かったときの彼女は、僕の覚えている限りではまあごく普通のかわいい女の子だった。でもいま僕の前に座っている彼女はまるで春を迎えて世界に飛び出したばかりの小動物のように瑞々しい生命感を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで独立した生命体のように楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたりあきらめたりしていた。僕はこんな生き生きとした表情を目にしたのは久しぶりだったので、しばらく感心して彼女の顔を眺めていた。
「本当にそう思う?」
僕はサラダを食べながら肯いた。
彼女はもう一度濃いサングラスをかけ、その奥から僕の顔を見た。
「ねえ、あなた嘘つく人じゃないわよね?」
「まあ出来ることなら正直な人間でありたいとは思っているけどね。」と僕は言った。
「どうしてそんな濃いサングラスかけてるの?」と僕は訊いてみた。
「急に毛が短くなるとものすごく無防備な気がするのよ。まるで裸で人ごみの中に放り出されちゃったみたいでね、全然落ちつかないの。だからサングラスかけるわけ。」
「なるほど」と僕は言った。そしてオムレツの残りを食べた。彼女は僕がそれを食べてしまうのを興味深そうな目でじっと見ていた。
「あっちの席に戻らなくていいの?」と僕は彼女の連れの三人の方を指さして言った。
「いいのよ、べつに。料理が来たらもどるから。なんてことないわよ。でもここにいると食事の邪魔かしら?」
「邪魔も何も、もう食べ終わっちゃったよ」と僕は言った。そして彼女が自分のテーブルに戻る気配がないので食後のコーヒーを注文した。奥さんが皿を下げて、そのかわりに砂糖とクリームを置いていった。
「ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかったの?ワタナベってあなたの名前でしょう?ワタナベ?トオルって」
「そうだよ」
「じゃどうして返事しなかったの?」
「今日はあまり返事したくなかったんだ」
彼女はもう一度サングラスを外してテーブルの上に置き、まるで珍しい動物の入っている檻でものぞきこむような目付きで僕をじっと眺めた。「『今日はあまり返事したくなかったんだ』」と彼女はくりかえした。「ねえ、あなたってなんだかハンフリー?ボガートみたいなしゃべりかたするのね。クールでタフで」
「まさか。僕はごく普通の人間だよ。そのへんのどこにでもいる」
奥さんがコーヒーを持ってきて僕の前に置いた。僕は砂糖もクリームも入れずにそれをそっとすすった。
「ほらね、やっぱり砂糖もクリームもいれないでしょ」
「ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ」と僕は我慢強く説明した。「君はなんか誤解しているんじゃないかな」
「どうしてそんなに日焼けしてるの?」
「二週間くらいずっと歩いて旅行してたんだよ。あちこち。リュックと寝袋をかついで。だから日焼けしたんだ」
「どんなところ?」
「金沢から能登半島をぐるっとまわってね、新潟まで行った」
「一人で?」
「そうだよ」と僕は言った。「ところどころで道づれができるってことはあるけれどね」
「ロマンスは生まれたりするのかしら?旅先でふと女の子としりあったりして」
「ロマンス?」と僕はびっくりして言った。「あのね、やはり君は何か思いちがいをしていると思うね。寝袋かついで髭ぼうぼうで歩きまわっている人間がいったいどこでどうやってロマンスなんてものにめぐりあえるんだよ?」
「いつもそんな風に一人で旅行するの?」
「そうだね」
「孤独が好きなの?」と彼女は頬杖をついて言った。「一人で旅行し、一人でごはんを食べて、授業のときはひとりだけぽつんと離れて座っているのが好きなの?」
「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの」と僕は言った。
彼女はサングラスのつるを口にくわえ、もそもそした声で「『孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ』」と言った。「もしあなたが自叙伝書くことになったらその時は科白使えるわよ」
「ありがとう」と僕は言った。
「緑色は好き?」
「どうして?」
「緑色のポロシャツをあなたが着てるからよ。だから緑色はすきなのかって訊いている」
「とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ」
「『とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ』」と彼女はまたくりかえした。「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を塗ってるみたいで。これまでにそう言われたことある、他の人から?」
ない、と僕は答えた。
「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ。そんなのひどいと思わない?まるで呪われた人生じゃない、これじゃ。ねえ、私のお姉さん桃子っていうのよ。おかしくない?」
「それでお姉さんはピンク似合う?」
「それがものすごくよく似合うの。ピンクを着るために生まれてきたような人ね。ふん、まったく不公平なんだから。」
彼女のテーブルに料理が運ばれ、マドラスチェックの上着を着た男が「おーい、ミドリ、飯だぞお」と呼んだ。彼女はそちらに向かって<わかった>というように手をあげた。
「ねえ、ワタナベ君、あなた講義のノートとってる?演劇史Ⅱの?」
「とってるよ」と僕は言った。
「悪いんだけど貸してもらえないかしら?」私二回休んじゃってるのよ。あのクラスに私、知ってる人いないし」
「もちろん、いいよ」僕は鞄からノートを出して何か余計なものが書かれていないことをたしかめてから緑に渡した。
「ありがとう。ねえ、ワタナベ君、あさって学校に来る?」
「来るよ」
「じゃあ十二時にここに来ない?ノート返してお昼ごちそうするから。別にひとりでごはん食べないと消化不良起こすとか、そういうじゃないでしょう?」
「まさか」と僕は言った。「でもお礼なんていらないよ。ノート見せるくらいで」
「いいのよ。私、お礼するの好きなの。ねえ、大丈夫?手帳に書いとかなくて忘れない?」
「忘れないよ。あさっての十二時に君とここで合う」
「向うの方から「おーい、ミドリ、早くこないと冷めちゃうぞ」という声が聞こえた。
「ねえ、昔からそういうしゃべり方してたの?」と緑はその声を無視して言った。
「そうだと思うよ。あまり意識したことないけど」と僕は答えた。しゃべり方がかわっているなんて言われたのは本当にそれがはじめてだったのだ。
彼女は少し何か考えていたが、やがてにっこりと笑って席を立ち、自分のテーブルに戻っていった。僕がそのテーブルのそばを通りすぎたとき緑は僕に向かって手をあげた。他の三人はちらっと僕の顔を見ただけだった。
水曜日の十二時になっても緑はそのレストランに姿を見せなっかた。僕は彼女がくるまでビールを飲んで待っているつもりだったのだが、それでもまだ緑は姿を見せなかった。勘定を払い、外に出て店の向かい側にある小さな神社の石段に座ってビールの酔いをさましながら一時まで彼女を待ったが、それでも駄目だった。僕はあきらめて大学に戻り、図書館で本を読んだ。そして二時からドイツ語の授業に出た。
講義が終わると、僕は学生課にいって講義の登録簿を調べ、「演劇史Ⅱ」のクラスに彼女の名前を見つけた。緑という名前の学生は小林緑ひとりしかいなかった。次にカード式になっている学生名薄をくって六九年度入学生の中から「小林緑」を探し出し、住所と電話番号をメモした。住所は豊島区で、家は自宅だった。僕は電話ボックスに入ってその番号をまわした。
「もしもし、小林書店です」と男の声が言った。小林書店?
「申しわけありませんが、緑さんはいらっしゃいますか?」と僕は訊いた。
「いや、緑は今いませんねえ」と相手は言った。
「大学に行かれたんでしょうか?」
「うん、えーと、病院の方じゃないかなあ。おたくの名前は?」
僕は名前は言わず、礼だけ言って電話を切った。病院?彼女は怪我をするあるいは病気にかかるかして病院に行ったのだろうか?しかし男の声からそういう種類の非日常的な緊迫感はまったく感じとれなかった。<うん、えーと、病院の方じゃないかなあ>、それはまるで病院が生活の一部であるといわんばかりの口ぶりであった。魚屋に魚を買いに行ったよとか、その程度の軽い言い方だった。僕はそれについて少し考えをめぐらせてみたが、面倒くさくなったので考えるのをやめて寮に戻り、ベッドに寝転んで永沢さんに借りていたジョセフ?コンラッドの「ロード?ジム」の残りを読んでしまった。そして彼のところにそれを返しに行った。
永沢さんは食事に行くところだったので、僕も一緒に食堂に行って夕食を食べた。
外務省の試験はどうだったんですか?と僕は訊いてみた。外務省の上級試験の第二次が八月にあったのだ。
「普通だよ」と永沢さんは何でもなさそうに答えた。「あんなの普通にやってりゃ通るんだよ。集団討論だとか面接だとかね。女の子口説くのと変わりゃしない」
「じゃあまあ簡単だったわけですね」と僕は言った。「発表はいつなんですか?」
「十月のはじめ。もし受かってたら、美味いもの食わしてやるよ」
「ねえ、外務省の上級試験の二次ってどんなですか?永沢さんみたいな人ばかりが受けにくるんですか?」
「まさか。大体はアホだよ。アホじゃなきゃ変質者だ。官僚になろうなんて人間の九五パーセントまでは屑だもんなあ。これは嘘じゃないぜ。あいつら字だてろくに読めないんだ」
「じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか?」
「いろいろと理由はあるさ」と永沢さんは言った。「外地勤務が好きだとか、いろいろな。でもいちばんの理由は自分の能力を試してみたいってことだよな。どうせためすんなら一番でかい入れもののなかでためしてみたいのさ。つまりは国家だよ。このばかでかい官僚機構の中でどこまで自分が上にのぼれるか、どこまで自分が力を持てるかそういうのをためしてみたいんだよ。わかるか?」
「なんだかゲームみたいと聞こえますね」
「そうだよ。ゲームみたいなもんさ。俺には権力欲とか金銭欲とかいうものは殆どない。本当だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そういうものはびっくりするくらいないんだ。いわば無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いタフな世界で自分の力をためしてみたいんだ」
「そして理想というようなものも持ち合わせてないんでしょうね?」
「もちろんない」と彼は言った。「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想ではなく行動規範だ」
「でも、そうじゃない人生もいっぱいあるんじゃないですかね?」と僕は訊いた。
「俺のような人生はすきじゃないか?」
「よして下さいよ」と僕は言った。「好きも嫌いもありませんよ。だってそうでしょう、僕は東大に入れるわけでもないし、好きな時に好きな女と寝られるわけでもないし、弁が立つわけでもない。他人から一目おかれているわけでもなきゃ、恋人がいるでもない。二流の私立大学の文学部を出たって将来の展望があるわけでもない。僕に何が言えるんですか?」
「じゃ俺の人生がうらやましいか?」
「うらゃましかないですね」と僕は言った。「僕はあまりに僕自身に馴れすぎてますからね。それに正直なところ、東大にも外務省にも興味がない。ただひとつうらやましいのはハツミさんみたいに素敵な恋人を持ってることですね」
彼はしばらく黙って食事をしていた。
「なあ、ワタナベ」と食事が終わってから永沢さんは僕に言った。「俺とお前はここを出て十年だか二十年だか経ってからまたどこかで出会いそうな気がするんだ。そして何かのかたちでかかわりあいそうな気がするんだ」
「まるでディッケンズの小説みたいな話ですね」と言って僕は笑った。
「そうだな」と彼も笑った。「でも俺の予感ってよく当たるんだぜ」
食事のあとで僕と永沢さんは二人で近くのスナック?バーに酒に飲みに行った。そして九時すぎまでそこで飲んでいた。
「ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範っていったいどんなものなんですか?」と僕は訊いてみた。
「お前、きっと笑うよ」と彼は言った。
「笑いませんよ」と僕は言った。
「紳士であることだ」
僕は笑いはしなかったけれどあやうく椅子から転げ落ちそうになった。「紳士ってあの紳士ですか?」
「そうだよ、あの紳士だよ」と彼は言った。
「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」
「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」
「あなたは僕がこれまで会った人の中で一番変った人ですね」と僕は言った。
「お前は俺がこれまで会った人間の中で一番まともな人間だよ」と彼は言った。そして勘定を全部払ってくれた。
*
翌週の月曜日の「演劇史Ⅱ」の教室にも小林緑の姿はみあたらなかった。僕は教室の中をざっと見まわして彼女がいないことをたしかめてからいつもの最前列の席に座り、教師がくるまで直子への手紙を書くことにした。僕は夏休みの旅行のことを書いた。歩いた道筋や、通り過ぎた町町や、出会った人々について書いた。そして夜になるといつも君のことを考えていた、と。君と会えなくなって、僕は自分がどれくらい君を求めていたかということがわかるようになった。大学は退屈きわまりないが、自己訓練のつもりできちんと出席して勉強している。君がいなくなってから、何をしてもつまらなく感じるようになってしまった。一度君に会ってゆっくり話がしたい。もしできることならその君の入っている療養所をたずねて、何時間かでも面会したいのだがそれは可能だろうか?そしてもしできることならまた前のように二人で並んで歩いてみたい。迷惑かもしれないけれど、どんな短い手紙でもいいから返事がほしい。
それだけ書いてしまうと僕はその四枚の便せんをきれいに畳んで用意した封筒に入れ、直子の実家の住所を書いた。
やがて憂鬱そうな顔をした小柄な教師が入ってきて出欠をとり、ハンカチで額の汗を拭いた。彼は足が悪くいつも金属の杖をついていた。「演劇史Ⅱ」は楽しいとは言えないまでも、一応聴く価値のあるきちんとした講義だった。あいかわらず暑いですねえと言ってから、彼はエウリピデスの戯曲におけるデウス?エクス?マキナの役割について話しはじめた。エウリピデスにおける神が、アイスキュロスやソフォクレスのそれとどう違うかについて彼は語った。十五分ほど経ってところで教室のドアが開いて緑が入ってきた。彼女は濃いブルーのスポーツ?シャツにクリーム色の綿のズボンをはいて前と同じサングラスをかけていた。彼女は教師に向かって「遅れてごめんなさい」的な微笑を浮かべてから僕のとなりに座った。そしてショルダー?バッグからノートをだして、僕に渡した。ノートの中には「水曜日、ごめんなさい。怒ってる?」と書いたメモが入っていた。
講義が半分ほど進み、教師が黒板にギリシャ劇の舞台装置の絵を描いているところに、またドアが開いてヘルメットをかぶった学生が二人入ってきた。まるで漫才のコンビみたいな二人組だった。一人はひょろりとして高い方がアジ?ビラを抱えていた。背の低い方が教師のところに行って、授業の後半を討論にあてたいので了承していただきたい。ギリシャ悲劇よりもっと深刻な問題が現在の世界を覆っているのだと言った。そして机のふちをぎゅっとつかんで足を下におろし、杖をとって足をひきずりながら教室を出て行った。
背の高い学生がビアを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に立って演説をした。ビアにはあのあらゆる事象を単純化する独特の簡潔な書体で「欺瞞的総長選挙を粉砕し」「あらたなる全学ストへと全力を結集し」「日帝=産学協同路線に鉄槌を加える」と書いてあった。説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章の説得力はなかった。信頼性もなければ、人の心を駆り立てる力もなかった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつもの古い唄だった。メロディーが同じで、歌詞のてにをはが違うだけだった。この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。
「出ましょうよ」と緑は言った。
僕は肯いて立ちあがり、二人で教室をでた。出るときに丸顔の方が僕に何か言ったが、何を言ってるのかよくわからなかった。緑は「じゃあね」と言って彼にひらひらと手を振った。
「ねえ、私たち反革命なのかしら?」と教室を出てから緑が僕に言った。「革命が成就したら、私たち電柱に並んで吊るされるのかしら?」
「吊るされる前にできたら昼飯を食べておきたいな」と僕は言った。
「そうだ、少し遠くだけれどあなたをつれていきたい店があるの。ちょっと時間がかかってもかまわないかしら?」
「いいよ。二時からの授業まではどうせ暇だから」
緑は僕をつれてバスに乗り、四ツ谷まで行った。彼女のつれていってくれた店は四ツ谷の裏手の少し奥まったところにある弁当屋だった。我々がテーブルに座ると、何も言わないうちに朱塗りの四角い容器に入った日変りの弁当と吸物の椀が運ばれてきた。たしかにわざわざバスに乗って食べにくる値打のある店だった。
「美味いね」
「うん。それに結構安いのよ。だから高校のときからときどきここにお昼食べに来てたのよ。ねえ、私の学校このすぐ近くにあったのよ。ものすごく厳しい学校でね、私たちこっそり隠れて食べに来たもんよ。なにしろ外食してるところをみつかっただけで停学になる学校なんだもの」
サングラスを外すと、緑はこの前見たときよりいくぶん眠そうな目をしていた。彼女は左の手首にはめた細い銀のブレスレットをいじったり、小指の先で目のきわをぽりぽりと掻いたりしていた。
「眠いの?」と僕は言った。
「ちょっとね。寝不足なのよ。何やかやと忙しくて。でも大丈夫、気にしないで」と彼女は言った。「この前ごめんなさいね。どうしても抜けられない大事な用事ができちゃったの。それも朝になって急にだから、どうしようもなかったのよ。あのレストランに電話をしようかと思ったんだけど店の名前も覚えてないし、あなたの家の電話だって知らないし。ずいぶん待った?」
「べつにかまわないよ。僕は時間のあり余ってる人間だから」
「そんなに余ってるの?」
「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」
緑は頬杖をついてにっこり笑い、僕の顔を見た。「あなたって親切なのね」
「親切なんじゃなくて、ただ単に暇なのさ」と僕は言った。「ところであの日君の家に電話したら、家の人が君は病院に言ったって言ってたけど、何かあったの?」
「家に?」と彼女はちょっと眉のあいだにしわを寄せて言った。「どうして家の電話番号がわかったの?」
「学生課で調べたんだよ、もちろん。誰でも調べられる」
なるほど、という風に彼女は二、三度肯き、またブレスレットをいじった。「そうね、そういうの思いつかなかったわ。あなたの電話番号もそうすれば調べられたのにね。でも、その病院のことだけど、また今度話すわね。今あまり話したくないの。ごめんなさい。「
「かまわないよ。なんだか余計なこと訊いちゃったみたいだな」
「ううん、そんなことないのよ。私が今少し疲れてるだけ。雨にうたれた猿のように疲れているの」
「家に帰って寝たほうがいいんじゃないかな」と僕は言ってみた。
「まだ寝たくないわ。少し歩きましょうよ」と緑は言った。
「彼女は四ツ谷の駅からしばらく歩いたところにある彼女の高校の前に僕をつれていった。四ツ谷の駅の前を通りすぎるとき僕はふと直子と、その果てしない歩行のことを思い出した。そういえばすべてはこの場所から始まったのだ。もしあの五月の日曜日に中央線の電車の中でたまたま直子に会わなかったら僕の人生も今とはずいぶん違ったものになっていただろうな、とぼくはふと思った。そしてそのすぐあとで、いやもしあのとき出会わなかったとしても結局は同じようなことになっていたかもしれないと思いなおした。多分我々はあのとき会うべくして会ったのだし、もしあのとき会っていなかったとしても、我々はべつのどこかであっていただろう。とくに根拠があるわけではないのだが、僕はそんな気がした。
僕と小林緑は二人で公園のベンチに座って彼女の通っていた高校の建物を眺めた。校舎にはつたが絡まり、はりだしには何羽か鳩がとまって羽をやすめていた。趣きのある古い建物だった。庭には大きな樫の木がはえていて、そのわきから白い煙がすうっとまっすぐに立ちのぼっていた。夏の名残りの光が煙を余計にぼんやりと曇らせていた。
「ワタナベ君、あの煙なんだか分かる?」突然緑が言った。
わからない、と僕は言った。
「あれ生理ナプキン焼いてるのよ」
「へえ」と僕は言った。それ以上に何と言えばいいのかよくわからなかった。
「生理ナプキン、タンポン、その手のもの」と言って緑はにっこりした。「みんなトイレの汚物入れにそういうの捨てるでしょ、女子校だから。それを用務員のおじいさんが集めてまわって焼却炉で焼くの。それがあの煙なの」
「そう思ってみるとどことなく凄味があるね」と僕は言った。
「うん、私も教室の窓からあの煙をみるたびにそう思ったわよ。凄いなあって。うちの学校は中学、高校あわせる千人近く女の子がいるでしょ。まあまだ始まってない子もいるから九百人として、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい百八十人よね。で、一日に百八十人ぶんの生理ナプキンが汚物入れに捨てられるわけよね」
「まあそうだろうね。細かい計算はよくわからないけど」
「かなりの量だわよね。百八十人ぶんだもの。そういうの集めてまわって焼くのってどういう気分のものなのかしら?」
「さあ、見当もつかない」と僕は言った。どうしてそんなことが僕にわかるというのだ。そして我々はしばらく二人でその白い煙を眺めた。
「本当は私あの学校に行きたくなかったの。」と緑は言って小さく首を振った。「私はごく普通の公立の学校に入りたかったの。ごく普通の人がいくごく普通の学校に。そして楽しくのんびりと青春を過ごしたかったの。でも親の見栄であそこに入れられちゃったのよ。ほら小学校のとき成績が良いとそういうとこあるでしょ?先生がこの子の成績ならあそこに入れなすよ、ってね。で、入れられちゃったわけ。六年通ったけどどうしても好きになれなかったわ。一日も早くここを出ていきたい、一日も早くここを出ていきたいって、そればかり考えて学校に通ってたの。ねえ、私って無遅刻?無欠席で表彰までされたのよ。そんなに学校が嫌いだったのに。どうしてだかわかる?」
「わからない」と僕は言った。
「学校が死ぬほど嫌いだったからよ。だから一度も休まなかったの。負けるものかって思ったの。一度負けたらおしまいだって思ったの。一度負けたらそのままずるずる行っちゃうんじゃないかって怖かったのよ。三十九度の熱があるときだって這って学校に行ったわよ。先生がおい小林具合わるいんじゃないかって言っても、いいえ大丈夫ですって嘘ついてがんばったのよ。それで無遅刻?無欠席の表彰状とフランス語の辞書をもらったの。だからこそ私、大学でドイツ語をとったの。だってあの学校に恩なんか着せられちゃたまらないもの。そんなの冗談じゃないわよ。」
「学校のどこが嫌いだったの?」
「あなた学校好きだった?」
「好きでもとくに嫌いでもないよ。僕はごく普通の公立高校に通ったけどとくに気にはしなかったな。」
「あの学校ね」と緑は小指で目のわきを掻きながら言った。「エリートの女の子のあつまる学校なのよ。育ちも良きゃ成績も良いって女の子が千人近くあつめられてるの。ま、金持の娘ばかりね。。でなきゃやっていけないもの。授業料高いし、寄付もしょっちゅうあるし、修学旅行っていや京都の高級旅館を借りきって塗りのお膳で懐石料理食べるし、年に一回ホテル?オークラの食堂でテーブル?マナーの講習があるし、とにかく普通じゃないのよ。ねえ、知ってる?私の学年百六十人の中で豊島区に住んでる生徒って私だけだったのよ。私一度学生名簿を全部調べてみたの。みんないったいどんなところに住んでるだろうって。すごかったわねえ、千代田《ちよだ》区三番町、港区|元麻布《もとあざぶ》、大田区|田園調布《でんえんちょうふ》、世田谷《せたがや》区|成城《せいじょう》……もうずうっとそんなのばかりよ。一人だけ千葉県|柏市《かしわし》っていう女の子がいてね、私その子とちょっと仲良くなってみたの。良い子だったわよ。家にあそびにいらっしゃいよ、遠くてわるいけどっていうからいいわよって行ってみたの。仰天しちゃったわね。なにしろ敷地を一周するのに十五分かかるの。すごく庭があって、小型車くらい大きさの犬が二匹いて牛肉のかたまりをむしゃむしゃ食べてるわけ。それでもその子、自分が千葉に住んでることでひけめ感じてたのよ、クラスの中で。遅刻しそうになったらメルセデス?ベンツで学校の近くまで送ってもらうような子がよ。車は運転手つきで、その運転手たるや『グリーン?ホーネット』に出てくる運転手みたいに帽子かぶって白い手袋はめてるのよ。なのにその子、自分のことを恥ずかしがってるのよ。信じられないワ。信じられる?」
僕は首を振った。
「豊島区北大塚《きたおおつか》なんて学校中探したって私くらいしかいやしないわよ。おまけに親の職業欄にはこうあるの、〈書店経営〉ってね。おかげてクラスのみんなは私のことすごく珍しがってくれたわ。好きな本がすきなだけ読めていいわねえって。冗談じゃないわよ。みんなが考えてるのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの人たち本屋っていうとああいうのしか想像できないのね。でもね、実物たるや惨めなものよ。小林書店。気の毒な小林書店。がらがらと戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。一番|堅実《けんじつ》に売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧?図解入り四十八手のとじこみ付録のツイてるや強。近所の奥さんがそういうの買ってって、台所のテーブルに座って熟読して、御主人が帰ってきたらちょっとためしてみるのね。あれけっこうすごいのよね。まったく世間の奥さんって何を考えて生きているのかしら。それから漫画。これも売れるわよね。マガジン、サンデー、ジャンプ。そしてもちろん週刊誌。とにかく殆んどが雑誌なのよ。少し文庫はあるけど、たいしたものないわよ。ミステリーとか、時代もの、風俗もの、そういうのしか売れないから。そして実用書。碁の打ちかた、盆栽の育てかた、結婚式のスピーチ、これだけは知らねばならない性生活、煙草はすぐやめられる、などなど。それからうちは文房具まで売ってるのよ。レジの横にボールペンとか鉛筆とかノートとかそういうの並べてね。それだけ。『戦争と平和』もないし、『性的人間』もないし、『らい麦畑《むぎばたけ》』もないの。それが小林書店。そんなものいったいどこがうらやましいっていうのよ?あなたうらやましい?」
「情景が目の前に浮かぶね」
「ま、そういう店なのよ。近所の人はみんなうちに本を買いに来るし、配達もするし、昔からのお客さんも多いし、一家四人は十分食べていけるわよ。借金もないし。娘を二人大学にやることはできるわよ。でもそれだけ。それ以上になにか特別なことをやるような余裕はうちにはないのよ。だからあんな学校に私を入れたりするべきじゃなかったのよ。そんなの惨めになるだけだもの。何か寄付があるたびに親にぶつぶつ文句を言われて、クラスの友だちとどこかにあそびに行っても食事どきになると高い店に入ってお金が足りなくなるんじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って暗いわよ。あなたのお家はお金持なの?」
「うち?うちはごく普通の勤め人だよ。とくに金持でもないし、とくに貧乏でもない。子供を東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけど、まあ子供は僕一人だから問題はない。仕送りはそんなに多くないし、だからアルバイトしてる。ごくあたり前の家だよ。小さな庭があって、トヨタ?カローラがあって」
「どんなアルバイトしてるの?」
「週に三回新宿のレコード屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと座って店番してりゃいいんだ」
「ふうん」と緑は言った。「私ね、ワタナベ君ってお金に苦労したことなんかない人だって思ってたのよ。なんとなく、見かけで」
「苦労したことはないよ、べつに。それほど沢山お金があるわけじゃないっていうだけのことだし、世の中の大抵の人はそうだよ」
「私通って学校では大抵の人は金持だったのよ」と彼女は膝の上に両方の手のひらを上にに向けて言った。「それが問題だったのよ」
「じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらいみることになるよ」
「ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?」
「わからないな」
「お金がないって言えることなのよ。例えば私がクラスの友だちに何かしましょう寄って言うでしょう、すると相手はこう言うの、『私いまお金がないから駄目』って。逆の立場になったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもし『いまお金ない』って言ったら、それは本当にお金がないって言うことなんだもの。惨めなだけよ。美人の女の子が『私今日はひどい顔してるからそどに出たくないなあ』っていうのと同じね。ブスの子がそんなこと言ってごらんなさいよ、笑われるだけよ。そういうのが私にとっての世界だったのよ。去年までの六年間の」
「そのうちに忘れるよ」と僕は言った。
「早く忘れたいわ。私ね、大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の人がいっぱいいて」
彼女はほんの少し唇を曲げて微笑み、短い髪を手のひらで撫でた。
「君はなにかアルバイトしてる?」
「うん、地図の解説を書いてるの。ほら、地図を買うと小冊子《しょうさっし》みたいなのがついてるでしょ?町の説明とか、人口とか、名所とかについていろいろ書いてあるやつ。ここにこういうハイキング?コースがあって、こういう伝説があって、こういう花が咲いて、こういう鳥がいてとかね。あの原稿を書く仕事なのよ。あんなの本当に簡単なの。あっという間よ。日比谷《ひびや》図書館に行って一日がかりで本を調べたら一冊書けちゃうもの。ちょっとしたコツをのみこんだら仕事なんかくらでもくるし」
「コツって、どんなコツ?」
「つまりね、他の人が書かないようなことをちょっと盛りこんでおけばいいのよ。すると地図会社の担当の人は《あのこは文章がかける》って思ってくれるわけ。すごく感心してくれたりしてね。仕事をまわしてくれるのよ。別にたいしたことじゃなくていいのよ。ちょっとしたことでいいの。たとえばね、ダムを作るために村がひとつここで沈んだが、わたり鳥たちは今でもまだその村のことを覚えていて、季節がくると鳥たちがその子の湖をいつまで飛びまわっている光景が見られる、とかね。そういうエピソードをひとつ入れておくとね、みんなすごく喜ぶのよ。ほら情景的に情緒的でしょ。普通のアルバイトの子ってそういう工夫をしないのよ、あまり。だがら私けっこういいお金とってるのよ、その原稿書きで」
「でもよくそういうエピソードがみつかるもんだね、うまく」
「そうねえ」と言って緑はすこし首ををひねった。「見つけようと思えばなんとか見つかるものだし、見つからなきゃ害のない程度に作っちゃえばいいのよ」
「なるほど」と僕は感心して言った。
「ピース」と緑は言った。
彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったので、僕は例によって日の丸の話やら突撃隊のラジオ体操の話やらをした’。緑も突撃隊の話で大笑いした。突撃隊は世界中の人を楽しい気持ちにさせるようだった。緑は面白そうだから一度是非その寮を見てみたいと言った。見たって面白かないさ、と僕は言った。
「男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマスターベイションしたりしてるだけさ」
「ワタナベ君もするの、そういうの?」
「しない人間はいないよ」と僕は説明した。「女の子に生理があるのと同じように、男はマスターベイションやるんだ。みんなやる。誰でもやる。」
「恋人がいる人もやるかしら?つまりセックスの相手がいる人も?」
「そういう問題じゃないんだ。僕の隣の部屋の慶応《けいおう》大学の学生なんてマスターベイションしてからデートに行くよ。その方がおちつくからって」
「そういうことは婦人雑誌の付録には書いてないしね」
「まったく」と言って緑は笑った。「ところでワタナベ君、今度の日曜日は暇?あいてる?」
「どの日曜日も暇だよ。六時からアルバイトに行かなきゃならないけど」
「よかったら一度うちにあそびにこない?小林書店に。店は閉まってるんだけど、私夕方まで留守番しなくちゃならないの。ちょっと大事な電話がかかってくるかもしれないから。ねえ、お昼ごはん食べない?作ってあげるわよ」
「ありがたいね」と僕は言った。
緑はノートのベージを破って家までの道筋をくわしく地図に描いてくれた。そして赤いボールペンを出して家のあるところに巨大な×印をつけた。
「いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。十二時くらいに来てくれる?ごはん用意してるから」
僕は礼を言ってその地図をポケットにしまった。そしてそろそろ大学に戻って二時からのドイツ語の授業に出ると言った。緑は行くところがあるからと言って四ツ谷から電車に乗った。
日曜日の朝、僕は九時に起きて髭を剃り、洗濯をして洗濯ものを屋上に干した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群れ《むれ》が中庭をぐるぐるとびまわり、近所の子供たちが網をもってそれを追いまわしていた。風はなく、日の丸の旗はだらんと下に垂れていた。僕はきちんとアイロンのかかったシャツを着て寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えたようにがらんとしていて人影もほとんどなく、大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと響きわたっていた。木製のヒールのついたサボをはいた女の子がからんからんと音をたてながらアスファルトの道路を横切り、都電の車庫のわきでは四、五人の子供たちが空缶を並べてそれめがけて石を投げていた。花屋が一軒店を開けていたので、僕はそこで水仙の花を何本か買った。秋に水仙を買うというのも変なものだったが、僕は昔から水仙の花が好きなのだ。
日曜日の朝の都電には三人づれのおばあさんしか乗っていなかった。僕が乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花を見比べた。ひとりのおばあさんは僕の顔を見てにっこりと笑った。僕のにっこりとしたそしていちばんうしろの席に座り、窓のすぐそとを通りすぎていく古い家並みを眺めていた。電車は家々の軒先《のきさき》すれすれのところを走っていた。ある家の物干しにはトマトの鉢植《はちうえ》が十個もならび、その横で大きな黒猫がひなたぼっこをしていた。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしているのも見えた。どこかからいしだあゆみの唄が聴こえた。カレーの匂いさえ漂っていた。電車はそんな親密な裏町を縫うようにすると走っていった。途中の駅で何人か客がこりこんできたが、三人のおばあさんたちは飽きもせず何かについて熱心に頭をつき合わせて話しつづけていた。
大塚駅の近くで僕は都電を降り、あまり見映えのしない大通りを彼女が地図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこれもあまり繁盛《はんじょう》しているようには見えなかった。どの店も建物は旧く、中は暗そうだった。看板の字が消えかけているものもあった。建物の旧さやスタイルから見て、このあたりが戦争で爆撃を受けなかったらしいことがわかった。だからこうした家並みがそのままに残されているのだ。もちろん建てなおされたものもあったし、どの家も増築《ぞうちく》されたら部分的に補修されたりはしていたが、そういうのはまったくの古い家より余計に汚らしく見えることのほうが多かった。
人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音をあげて郊外に移っていってしまい、あとに残ったのは安アパートか社宅か引越しのむずかしい商店か、あるいは頑固《がんこ》に昔から住んでいる土地にしがみついている人だけといった雰囲気の町だった。車の排気ガスのせいで、まるでかすみがかかったみたいに何もかもがぼんやりと薄汚れていた。
そんな道を十分ばかり歩いてガソリン?スタンドの角を右に曲ると小さな商店街があり、まん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。たしかに大きな店ではなかったけれど、僕が緑の話から想像していたほど小さくはなかった。ごく普通の町のごく普通の本屋だった。僕が子供の頃、発売日を待ちかねて少年週刊誌を買いに走っていったのと同じような本屋だった。小林書店の前に立っていると僕はなんとなく懐かしい気分になった。どこの町にもこういう本屋があるのだ。
店はすっかりシャッターをおろし、シャッターには「週刊文春?毎週木曜日発売」と書いてあった。十二時にはまだ十五分ほど間があったが、水仙の花を持って商店街を歩いて時間をつぶすのもあまり気が進まなかったので、僕はシャッターのわきにあるベルを押して、二、三歩後ろにさがって返事を待った。十五秒くらい待ったが返事はなかった。もう一度ベルを押したものかどうか迷っていると、上の方でガラガラと窓の開く音がした。見上げると緑が窓から首を出して手を振っていた。
「シャッター開けて入ってらっしゃいよ」と彼女はどなった。
「ちょっと早かったけど、いいかな?」と僕もどなりかえした。
「かまわないわよ、ちっとも。二階に上がってきてよ。私、今ちょっと手が放せないの」そしてまたガラガラと窓が閉まった。
僕はとんでもなく大きい音を立ててシャッターを一メートルほど押しあげ、身をかがめて中に入り、またシャッターを下ろした。店の中はまっ暗かった。土間《どま》からあがったところは簡単な応接室のようになっていて、ソファ?セットが置いてあった。それほど広くはない部屋で、窓からは一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光がさしこんでいた。左手には倉庫のような物置のようなスペースがあり、便所のドアも見えた。右手の急な階段を用心ぶかく上がっていくと二階に出た。二階は一階に比べると格段に明るかったので僕は少なからずホッとした。
「ねえ、こっち」とどこかで緑の声がした。階段を上がったところ右手に食堂のような部屋があり、その奥に台所があった。家そのものは旧かったが、台所はつい最近改築されたらしく、流し台も蛇口も収納棚もぴかぴかに新しかった。そしてそこで緑が食事の仕度をしていた。鍋で何かを煮るぐつぐつという音がして、魚を焼く匂いがした。
「冷蔵庫にビールが入ってるから、そこに座って飲んでてくれる?」と緑がちらっとこちらを見て言った。僕は冷蔵庫から缶ビールをだしてテーブルに座って飲んだ。ビールは半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。テーブルの上には小さな白い灰皿と新聞と醤油さしがのっていた。メモ用紙とボールペンもあって、メモ用紙には電話番号と買物の計算らしい数字が書いてあった。
「あと十分くらいでできると思うんだけど、そこで待っててくれる?待てる?」
「もちろん待てるよ」と僕は言った。
僕は冷たいビールをすすりながら一心不乱に料理を作っている緑のうしろ姿を眺めていた。彼女は素速く器用に体を動かしながら、一度に四つくらいの料理のプロセスをこなしていた。こちらで煮ものの味見をしたかと思うと、何かをまな板の上で素速く刻み、冷蔵庫から何かを出して盛りつけ、使い終わった鍋をさっと洗った。うしろから見ているとその姿はインドの打楽器《だがっき》奏者を思わせた。あっちのベルを鳴らしたかと思うとこっちの板を叩き、そして水牛の骨を打ったり、という具合だ。ひとつひとつの動作が俊敏《しゅんびん》で無駄がなく、全体のバランスがすごく良かった。僕は感心してそれを眺めていた。
「何か手伝うことあったらやるよ」と僕は声をかけてみた。
「大丈夫よ。私一人でやるのに馴れてるから」と緑は言ってちらりとこちらを向いて笑った。緑は細いブルージーンズの上にネイビーブルーTシャツを着ていた。Tシャツの背中にはアップル?レコードのりんごのマークが大きく印刷されていた。うしろから見ると彼女の腰はびっくりするくらいほっそりとしていた。まるでこしをがっしりと固めるための成長の一過程が何かの事情でとばされてしまったんじゃないかと思えるくらいの華奢《きゃしゃ》な腰だった。そのせいで普通の女の子がスリムのジーンズをはいたときの姿よりはずっと中性的な印象があった。流しの上の窓から入ってくる明るい光が彼女の体の輪郭《りんかく》にぼんやりとふちどりのようなものをつけていた。
「そんなに立派な食事作ることなかったのにさ」と僕は言った。
「ぜんぜん立派じゃないわよ」と緑はふりむかずに言った。「昨日は私忙しくてろくに買物できなかったし、冷蔵庫のありあわせのものを使ってさっと作っただけ。だからぜんぜん気にしないで。本当よ。それにね、客あしらいの良いのはうちの家風なの。うちの家族ってね、どういうわけだか人をもてなすのが大好きなのよ、根本的に。もう病気みたいなものよね、これ。べつにとりたてて親切な一家というわけでもないし、べつにそのことで人望があるというのでもないんだけれど、とにかくお客があるとなにはともあれもてなさないわけにはいかないの。全員がそういう性分なのよ、幸か不幸か。だからね、うちのお父さんなんか自分じゃ殆んどお酒飲まないくせに家の中もうお酒だらけよ。なんでだと思う?お客に出すためよ。だからビールどんどん飲んでね、遠慮なく」
「ありがとう」と僕は言った。
それから突然僕は水仙の花を階下に置き忘れてきたことに気づいた。靴を脱ぐときに横に置いてそのまま忘れてきてしまったのだ。僕はもう一度下におりて薄暗がりの中に横たわった十本の水仙の白い花をとって戻ってきた。緑は食器棚から細長いグラスをだして、そこに水仙をいけた。
「私、水仙って大好きよ」と緑は言った。「昔ね高校の文化祭で『七つの水仙』唄ったことあるのよ。知ってる、『七つの水仙』?」
「知ってるよ、もちろん」
「昔フォーク?グループやってたの。ギター弾いて」
そして彼女は「七つの水仙」を歌いながら料理を皿にもりつけていった。
緑の料理は僕の想像を遙かに越えて立派なものだった。鯵の酢のものに、ぽってりとしただしまき玉子、自分で作ったさわらの西京漬、なすの煮もの、じゅんさいの吸い物、しめじの御飯、それにたくあんを細かくきざんで胡麻をまぶしたものがたっぷりとついていた。味つけはまったく関西風の薄味だった。
「すごくおいしい」と僕は感心して言った。
「ねえワタナベ君、正直言って私の料理ってそんなに期待してなかったでしょ?見かけからして」
「まあね」と僕は正直に言った。
「あなた関西の人だからそういう味つけ好きでしょ?」
「僕のためにわざわざ薄味でつくったの?」
「まさか。いくらなんてもそんな面倒なことしないわよ。家はいつもこういう味つけよ」
「お父さんかお母さんが関西の人なの、じゃあ?」
「ううん、お父さんがずっとここの人だし、お母さんは福島の人よ。うちの親戚中探したって関西のひとなんて一人もいないわよ。うちは東京?北関東系の一家なの」
「よくわからないな」と僕は言った。「じゃあどうしてこんなきちんとした正統的な関西風の料理が作れるの?誰かに習ったわけ?」
「まあ話せば長くなるんだけどね」と彼女はだしまき玉子を食べながら言った。「うちのお母さんというのがなにしろ家事と名のつくものが大嫌いな人でね、料理なんてものは殆んど作らなかったの。それにほら、うちは商売やってるでしょ、だから忙しいと今日は店屋ものにしちゃおうとか、肉屋でできあいのコロッケ買ってそれで済ましちゃおうとか、そういうことがけっこう多かったのよ。私、そういうのが子供の頃から本当に嫌だったの。嫌で嫌でしょうがなかったの。三日分のカレー作って毎日それをたべてるとかね。それである日、中学校三年生のときだけど、食事はちゃんとしたものを自分で作ってやると決心したわけ。そしれ新宿の紀伊国屋に行って一番立派そうな料理の本を買って帰ってきて、そこに書いてあることを隅から隅まで全部マスターしたのまな板の選び方、包丁の研ぎ方、魚のおろし方、かつおぶしの削り方、何もかもよ。そしてその本を書いた人が関西の人だったから私の料理は全部関西風になっちゃったわけ」
「じゃあこれ、全部本で勉強したの?」と僕はびっくりして訊いた。
「あとはお金を貯えてちゃんとした懐石料理を食べに行ったりしてね。それで味を覚えて。私ってけっこう勘はいいのよ。論理的思考って駄目だけど」
「誰にも教わらずにこれだけ作れるってたいしたもんだと思うよ、たしかに」
「そりゃ大変だったわよ」と緑はため息をつきながら言った。「なにしろ料理なんてものにまるで理解も関心もない一家でしょ。きちんとした包丁とか鍋とか買いたいって言ってもお金なんて出してくれないのよ。今ので十分だっていうの。冗談じゃないわよ。あんなベラベラの包丁で魚なんておろせるもんですか。でもそういうとね、魚なんかおろさなくていいって言われるの。だから仕方ないわよ。せっせとおこづかいためて出刃包丁とか鍋とかザルとか買ったの。ねえ信じられる?十五か十六の女の子が一生懸命爪に火をともすようにお金ためてザルやる研石やら天ぷら鍋買ってるなんて。まわりの友だちはたっぷりおこづかいもらって素敵なドレスやら靴やら買ってるっていうのによ。可哀そうだと思うでしょ?」
僕はじゅんさいの吸物をすすりながら肯いた。
「高校一年生のときに私どうしても玉子焼き器が欲しかったの。だしまき玉子を作るための細長い銅のやつ。それで私、新しいブラジャーを買うためのお金使ってそれ買っちゃったの。おかげでもう大変だったわ。だって私三ヶ月くらいたった一枚のブラジャーで暮らしたのよ。信じられる?夜に洗ってね、一生懸命乾かして、朝にそれをつけて出ていくの。乾かなかったら悲劇よね、これ。世の中で何が哀しいって生乾きのブラジャーつけるくらい哀しいことないわよ。もう涙がこぼれちゃうわよ。とくにそれがだしまき玉子焼き器のためだなんて思うとね」
「まあそうだろうね」と僕は笑いながら言った。
「だからお母さんが死んじゃったあとね、まあお母さんにはわるいとは思うんだけどいささかホッとしたわね。そして家計費好きに使って好きなもの買ったの。だから今じゃ料理用具はなかなかきちんとしたもの揃ってるわよ。だってお父さんなんて家計費がどうなってるのか全然知らないんだもの。」
「お母さんはいつ亡くなったの?」
「二年前」と彼女は短く答えた。「癌よ。脳腫瘍《のうしゅよう》。一年半入院して苦しみに苦しんで最後には頭がおかしくなって薬づけになって、それでも死ねなくて、殆んど安楽死みたいな格好で死んだの。なんていうか、あれ最悪の死に方よね。本人も辛いし、まわりも大変だし。おかげてうちなんかお金なくなっちゃったわよ。一本二万円の注射ぽんぽん射つわ、つきそいはなきゃいけないわ、なんのかのでね。看病してたおかげで私は勉強できなくて浪人しちゃうし、踏んだり蹴ったりよ。おまけに―」と彼女は何かの言いかけたが思いなおしてやめ、箸を置いてため息をついた。「でもずいぶん暗い話になっちゃったわね。なんでこんな話になったんだっけ?」
「ブラジャーのあたりからだね」と僕は言った。
「そのだしまきよ。心して食べてね」と緑は真面目な顔をして言った。
僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。緑はそれほどの量を食べなかった。料理作ってるとね、作ってるだけでもうおなかいっぱいになっちゃうのよ、と緑は言った。
食事が終ると彼女は食器をかたづけ、テーブルの上を拭き、どこかからマルボロの箱を持ってきて一本くわえ、マッチで火をつけた。そして水仙をいけたグラスを手にとってしばらく眺めた。
「このままの方がいいみたいね」と緑は言った。「花瓶に移さなくていいみたい。こういう風にしてると、今ちょっとそこの水辺で水仙をつんできてとりあえずグラスにさしてあるっていう感じがするもの」
「大塚駅の前の水辺でつんできたんだ」と僕は言った。
緑はくすくす笑った。「あなたって本当に変ってるわね。冗談なんかいわないって顔して冗談言うんだもの」
緑は頬杖をついて煙草を半分吸い、灰皿にぎゅっとすりつけるようにして消した。煙が目に入ったらしく指で目をこすっていた。
「女の子はもう少し上品に煙草を消すもんだよ」と僕は言った。「それじゃ木樵女《きこりおんな》みたいだ。無理に消そう思わないでね、ゆっくりまわりの方から消していくんだ。そうすればそんなにくしゃくしゃならないですむ。それじゃちょっとひどすぎる。それからどんなことがあっても鼻から煙を出しちゃいけない。男と二人で食事しているときに三ヶ月一枚のブラジャーでとおしたなんていう話もあまりしないね、普通の女の子は」
「私、木樵女なのよ」と緑は鼻のわきを掻きながら言った。「どうしてもシックになれないの。ときどき冗談でやるけど身につかないの。他に言いたいことある?」
「マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね」
「いいのよ、べつに。どうせ吸ったって同じくらいまずいんだもの」と彼女は言った。そして手の中でマルボロの赤いハード?パッケージをくるくるとまわした。「先月吸いはじめたばかりなの。本当はとくに吸いたいわけでもないんだけど、ちょっと吸ってみようかなと思ってね、ふと」
「どうしてそうと思ったの?」
緑はテーブルの上に置いた両手をぴたりとあわせてしばらく考えていた。「どうしてもよ。ワタナベ君は煙草吸わないの?」
「六月にやめたんだ」
「どうしてやめたの?」
「面倒臭かったからだよ。夜中に煙草が切れたときの辛さとか、そういうのがさ。だからやめたんだ。何かにそうんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ」
「あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっと」
「まあそうかもしれないな」と僕は言った。「多分そのせいで人にあまり好かれないんだろうね。昔からそうだな」
「それはね、あなたが人に好かれなくったってかまわないと思っているように見えるからよ。だからある種の人は頭にくるんじゃないかしら」と彼女は頬杖をつきながらもそもそした声で言った。「でも私あなたと話してるの好きよ。しゃべり方だってすごく変ってるし。『何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ』」
僕は彼女が食器を洗うのを手伝った。僕は緑のとなりに立って、彼女の洗う食器をタオルで拭いて、調理台の上に積んでいった。
「ところで家族の人はみんな何処に行っちゃったの、今日は?」と僕は訊いてみた。
「お母さんはお墓の中よ。二年前死んだの。」
「それ、さっき聞いた」
「お姉さんは婚約者とデートしてるの。どこかドライブに行ったんじゃないかしら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車大好きで。私ってあんまり車好きじゃないんだけど。」
「緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。
「あとはお父さんね」と少しあとで緑は言った。
「そう」
「お父さんは去年の六月にウルグアイに行ったまま戻ってこないの」
「ウルグアイ?」と僕はびっくりして言った。「なんでまたウルグアイなんかに?」
「ウルグアイに移住《いじゅう》しようとしたのよ、あのひと。馬鹿みたいな話だけど。軍隊のときの知りあいがウルグアイに農場持ってて、そこに行きゃなんとでもなるって急に言いだして、そのまま一人で飛行機乗って行っちゃったの。私たち一生懸命とめたのよ、そんなところ行ったってどうしようもないし、言葉もできないし、だいいちお父さん東京から出たことだってロクにないじゃないのって。でも駄目だったわ。きっとあの人、お母さんを亡くしたのがものすごいショックだったのね。それで頭のタガが外れちゃったのよ。それくらいあの人、お母さんのことを愛してたのよ。本当よ。」
僕はうまく木槌《きづち》が打てなくて、口をあけて緑を眺めていた。
「お母さんが死んだとき、お父さんが私とお姉さんに向かってなんて言ったか知ってる?こう言ったのよ。『俺は今とても悔しい。俺はお母さんを亡くするよりはお前たち二人を死なせたほうがずっと良かった』って。私たち唖然として口もきけなかったわ。だってそう思うでしょう?いくらなんでもそんな言い方ってないじゃない。そりゃね、最愛の伴侶を失った辛さ哀しさ苦しみ、それはわかるわよ。気の毒だと思うわよ。でも実の娘に向かってお前らがかわりにしにゃあよかったんだってのはないと思わない?それはちょっとひどすぎるとおもわない?」
「まあ、そうだな」
「私たちだって傷つくわよ」と緑は首を振った。「とにかくね、うちの家族ってみんなちょっと変ってるのよ。どこか少しずつずれてんの」
「みたいだね」と僕も認めた。
「でも人と人が愛しあうって素敵なことだと思わない?娘に向かってお前らが代わりに死にゃよかったんだなんて言えるくらい奥さんを愛せるなんて?」
「まあそう言われてみればそかもしれない」
「そしてウルグアイに行っちゃったの。私たちをひょい放り捨てて」
僕は黙って皿を拭いた。全部の皿を拭いてしまうと緑は僕が拭いた食器を棚にきちんとしまった。
「それでお父さんからは連絡ないの?」と僕は訊いた。
「一度だけ絵ハガキが来たわ。去年の三月に。でもくわしいことは何も書いてないの。こっちは暑いだとか、思ったほど果物がうまくないだとか、そんなことだけ。まったく冗談じゃないわよねえ。下らないロバの写真の絵ハガキで。頭がおかしいのよ、あの人。その友だちだか知りあいだかに会えたかどうかさえ書いてないの。終わりの方にももう少し落ちついたら私とお姉さんを呼びよせるって書いてあったけど、それっきり音信不通。こっちから手紙出しても返事も来やしないし」
「それでもしお父さんがウルグアイに来いて言ったら、君どうするの?」
「私は行ってみるわよ。だって面白そうじゃない。お姉さんは絶対に行かないって。うちのお姉さんは不潔なものとか不潔な場所とかが大嫌いなの」
「ウルグアイってそんなに不潔なの?」
「知らないわよ。でも彼女はそう信じてるの。道はロバのウンコいっぱいで、そこに蝿がいっぱいたかって、水洗《すいせん》便所の水はろくに流れなくて、トカゲやらサソリやらがうようよいるって。そういう映画をどこかで見たんじゃないかしら。お姉さんって虫も大嫌いなの。お姉さんの好きなのはチャラチャラした車に乗って湘南あたりをドライブすることなの」
「ふうん」
「ウルグアイ、いいじゃない。私は行ってもいいわよ」
「それじゃこのお店は今誰がやってるの?」と僕は訊いてみた。
「お姉さんがいやいややってるの。近所に住んでる親戚のおじさんが毎日手伝ってくれて配達もやってくれるし、私も暇があれば手伝うし、まあ書店というのはそれほど重労働じゃないからなんとかとかやれてるわよ。どうにもやれなくなったらお店畳んで売っちゃうつもりだけど」
「お父さんのことは好きなの?」
緑は首を振った。「とくに好きってわけでもないわね」
「じゃあどうしてウルグアイまでついていくの?」
「信用してるからよ」
「信用?」
「そう、たいして好きなわけじゃないけど信用してるのよ、お父さんのとこを。奥さんを亡くしたショックで家も子供も仕事も放りだしてふらっとウルグアイに行っちゃうような人を私は信用するのよ。わかる?」
僕はため息をついた。「わかるような気もするし、わからないような気もするし」
緑はおかしそうに笑って、僕の背中を軽く叩いた。「いいのよ、別にどっちだっていいんだから」と彼女は言った。
その日曜日の午後にはばたばたといろんなコトが起きった。奇妙な日だった。緑の家のすぐ近所で火事があって、僕らは三階の物干しにのぼってそれを見物し、そしてなんとなくキスした。そんなふうに言ってしまうと馬鹿みたいだけれど、物事は実にそのとおりに進行したのだ。
僕らは大学の話をしながら食後のコーヒーを飲んでいると、消防自動車のサイレンの音が聞こえた。サイレンの音はだんだん大きくなり、その数も増えているようだった。窓の下を大勢の人が走り、何人かは大声で呼んでいた。緑は通りに面した部屋に行って窓を開けて下を見てから、ちょっとここで待っててねと言ってからどこかに消えた。とんとんとんと足早に階段を上がる音が聞こえた。
僕は一人でコーヒーを飲みながらウルグアイっていったいどこにあったんだっけと考えていた。ブラジルがあそこで、ベネズエラがあそこで、このへんがコロンビアでとずっと考えていたが、ウルグアイがどのへんにあるのかはどうしても思い出せなかった。そのうちに緑が下におりてきて、ねえ、早く一緒に来てよといった。僕は彼女のあとをついて廊下のつきあたりにある狭い急な階段を上り、広い物干し場に出た。物干し場はまわりの家の屋根よりもひときわ高くなっていて、近所が一望《いちぼう》に見わたせた。三軒か四軒向うからもうもうと黒煙が上がり、微風にのって大通りの方に流れていた。きな臭い匂いが漂っていた。
「あれ坂本さんのところだわね」と緑は手すりから身をのりだす用にして言った。「坂本さんって以前建具屋さんだったの。今は店じまいして商売してはいないんだけど」
僕は手すりから身をのりだしてそちらを眺めてみた。ちょうど三階建てのビルのかげになっていて、くわしい状況はわからなかったけれど、消防車が三台か四台あつまって消火作業をつづけていているようだった。もっとも通りが狭いせいで、せいぜい二台しか中に入れず、あとの車は大通りの方で待機していた。そして通りには例によって見物人がひしめいていた。
「大事なものがあったらまとめて、ここは非難したほうがいいみたいだな」と僕は緑に言った。「今は風向きが逆だからいいけど、いつ変るかもしれないし、すぐそこがガソリン?スタンドだものね。手伝うから荷物をまとめなよ」
「大事なものなんてないわよ」と緑は言った。
「でも何かあるだろう。預金通帳とか実印とか証書とか、そういうもの。とりあえずのお金だってなきゃ困るし」
「大丈夫よ。私逃げないもの」
「ここが燃えても?」
「ええ」と緑は言った。「死んだってかまわないもの」
僕は緑の目を見た。緑も僕の目を見た。彼女のいったいることがどこまで本気なのかどこから冗談なのかさっぱり僕にはわからなかった。僕はしばらく彼女を見ていたが、そのうちにもうどうでもいいやという気になってきた。
「いいよ、わかったよ。つきあうよ、君に」と僕は言った。
「一緒に死んでくれるの?」と緑は目をかがやかせて言った。
「まさか。危なくなったら僕は逃げるの。死にたいんなら君が一人で死ねばいいさ」
「冷たいのね」
「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ」
「ふうん、まあいいわ、とにかくここでしばらく成り行きを眺めながら唄でも唄ってましょうよ。まずくなってきたらまたその時に考えばいいもの」
「唄?」
緑は下から座布団《ざぶとん》を二枚と缶ビールを四本とギターを物干し場に運んできた。そして僕らはもうもうと上がる黒煙を眺めつつビールを飲んだ。そして緑はギターを弾いて唄を唄った。こんなことして近所の顰蹙《ひんしゅく》をかわないのかと僕は緑に訊ねてみた。近所の火事を見物しながら物干しで酒を飲んで唄を唄うなんてあまりまともな行為だとは思えなかったからだ。
「大丈夫よ、そんなの。私たち近所のことって気にしないことにしてるの」と緑は言った。
彼女は昔はやったフォーク?ソングを唄った。唄もギターもお世辞にも上手いとは言えなかったが、本人はとても楽しそうだった。彼女は『レモン?ツリー』だの「バフ」だの『五〇〇マイル』だの『花はどこに行った』だの『漕げよマイケル』だのをかたっぱしから唄っていった。はじめのうち緑は僕に低音パートを教えて二人で合唱《がっしょう》しようとしたが、僕の唄があまりにもひどいのでそれはあきらめ、あとは一人で気のすむまで唄いつづけた。僕はビールをすすり、彼女の唄を聴きながら、火事の様子を注意深く眺めていた。煙は急に勢いよくなったかと思うと少し収まりというのをくりかえしていた。人々は大声で何かを呼んだり命令したりしていた。ばたばたという大きな音をたてて新聞社のヘリコプターがやってきて写真を撮って帰っていった。我々の姿が写ってなければいいけれどと僕は思った。警官がラウト?スピーカーで野次馬に向かってもっと後ろに退ってなさいとどなっていた。子供が泣き声で母親を呼んでいた。どこかでガラスの割れる声がした。やがて風が不安定に舞いはじめ、白い燃えさしのようなものが我々のまわりにもちらほらと舞ってくるようになった。それでも緑はちびちびとビールをのみながら気持良さそうに唄いつづけていた。知っている唄をひととおり唄ってしまうと、今度は自分で作詞?作曲したという不思議な唄を唄った。
あなたのためにシチュー作りたいのに
私には鍋がない。
あなたのためにマフラーを編みたいのに
わたしには毛糸がない。
あなたのために詩を書きたいのに
私にはペンがない
「『何もない』っていう唄なの」と緑は言った。歌詞もひどいし、曲もひどかった。
僕はそんな無茶苦茶な唄を聴きながら、もしガソリン?スタンドに引火したら、この家も吹きとんじゃうだろうなというようなことを考えていた。緑は唄い疲れるとギターを置き、日なたの猫みたいにごろんと僕の肩にもたれかかった。
「私の作った唄どうだった?」と緑が訊いた。
「ユニークで独創的で、君の人柄がよく出てる」と僕は注意深く答えた。
「ありがとう」と彼女は言った。「何もない―というのがテーマの」
「わかるような気がする」と僕は肯いた。
「ねえ、お母さんの死んだときのことなんだけどね」と緑は僕の方を向っていった。
「うん」
「私ちっとも悲しくなかったの」
「うん」
「それからお父さんがいなくなっても全然悲しくないの」
「そう?」
「そう。こういうのってひどいと思わない?冷たすぎると思わない」
「でもいろいろ事情があるわけだろう?そうなるには」
「そうね、まあ、いろいろとね」と緑は言った。「それなりに複雑だったのよ、うち。でもね、私ずっとこう思ってたのよ。なんのかんのといっても実のお父さん?お母さんなんだから、死んじゃったり別れちゃったりしたら悲しいだろうって。でも駄目なのよね。なんにも感じないのよ。悲しくもないし、淋しくもないし、辛くもないし、殆んど思い出しもしないのよ。ときどき夢に出てくるだけ。お母さんが出てきてね、暗闇の奥からじっと私を睨んでこう非難するのよ、『お前、私が死んで嬉しんだろう?」ってね。べつにうれしがないわよ、お母さんが死んだことは。ただそれほど悲しくないっていうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いたのにね」
なんだってこんなにいっぱい煙が出るんだろうと僕は思った。火も見えないし、燃え広がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているのだ。いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろうと僕は不思議に思った。
「でもそれは私だけのせいじゃないのよ。そりゃ私も情の薄いところあるわよ。それは認めるわ。でもね、もしあの人たちが―お父さんとお母さんが―もう少し私のことを愛してくれていたとしたら、私だってもっと違った感じ方ができてたと思うの。もっともっと悲しい気持ちになるとかね」
「あまり愛されなかったと思うの」
彼女は首を曲げて僕の顔を見た。そしてこくんと肯いた。「『十分じゃない』と『全然足りない』の中間くらいね。いつも飢えてたの、私。一度でいいから愛情をたっぷりと受けてみたかったの。もういい、おなかいっぱい、ごちそうさまっていうくらい。一度でいいのよ、たった一度で。でもあの人たちはただの一度も私にそういうの与えてくれなかったわ。甘えるとつきとばされて、金がかかるって文句ばかり言われて、ずうっとそうだったのよ。それで私こう思ったの、私のことを年中百パーセント愛してくれる人を自分でみつけて手に入れてやるって。小学校五年か六年のときにそう決心したの」
「すごいね」と僕は感心して言った。「それで成果はあがった?」
「むずかしいところね」と緑は言った。そして煙を眺めながらしばらく考えていた。「多分あまりに長く持ちすぎたせいね、私すごく完璧なものを求めてるの。だからむずかしいのよ」
「完璧な愛を?」
「違うわよ。いくら私でもそこまえは求めてないわよ。私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向かって苺のシュート?ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたはなにもかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート?ケーキだよ』ってさしだすでしょ、すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」
「そんなの愛とはなんの関係もないような気がするけどな」と僕はいささか愕然として言った。
「あるわよ。あなたが知らないだけよ」と緑は言った。「女の子にはね、そう言うのがものすごく大切なときがあるのよ」
「苺のショート?ケーキを窓から放り投げることが?」
「そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいの。『わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のシュート?ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。お詫びにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート?ムース、それともチーズ?ケーキ?』」
「するとどうなる?」
「ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな」
「でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれど」と緑は言って僕の肩の上で小さく首を振った。「ある種の人々にとって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」
「君みたいな考え方をする女の子に会ったのははじめてだな」と僕は言った。
「そういう人はけっこう多いわね」と彼女は爪の甘皮をいじりながら言った。「でも私、真剣にそういう考え方しかできないの。ただ正直に言ってるだけなの。べつに他人と変った考え方してるなんて思ったこともないし、そんなもの求めてるわけでもないのよ。でも私が正直に話すと、そんな冗談か演技だと思うの。それでときどき何もかも面倒臭くなっちゃうけどね」
「そして火事で死んでやろうと思うの」
「あら、これはそういうじゃないわよ。これはね、ただの好奇心」
「火事で死ぬことが?」
「そうじゃなくてあなたがどう反応するか見てみたかったのよ」と緑は言った。「でも死ぬこと自体はちっとも怖くないわよ。それは本当。こんなの煙にまかれて気を失ってそのまま死んじゃうだけだもの、あっという間よ。全然怖くないわ。私の見てきたお母さんやら他の親戚の人の死に方に比べたらね。ねえ、うちの親戚ってみんな大病して苦しみ抜いて死ぬのよ。なんだかどうもそういう血筋《ちすじ》らしいの。死ぬまでにすごく時間がかかるわけ。最後の方は生きてるのか死んでるのかそれさえわからないくらい。残ってる意識と言えば痛みと苦しみだけ」
緑はマルボロをくわえて火をつけた。
「私が怖いのはね、そういうタイプの死なのよ。ゆっくりゆっくり死の影が生命の領域を侵蝕して、気がついたら薄暗くて何も見えなくなっていて、まわりの人も私のことを生者よりは死者に近いと考えているような、そういう状況なのよ。そんなのって嫌よ。絶対に耐えられないわ、私」
結局それから三十分ほどで火事はおさまった。大した延焼もなく、怪我人も出なかったようだった。消防車も一台だけを残して帰路につき、人々もがやがやと話をしながら商店街をひきあげていった。交通を規制するパトカーが残って路上でライトをぐるぐると回転させていた。どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺんにとまって地上の様子を眺めていた。
火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきかなかった。
「疲れたの?」と僕は訊いた。
「そうじゃないのよ」と緑は言った。「久しぶりに力を抜いてただけなの。ほおっとして」
「僕は緑の目を見ると、ミドリも僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いて、口づけした。緑はほんの少しだけびくっと肩を動かしたけれど、すぐまた体の力を抜いて目を閉じた。五秒か六秒、我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を落として、それが細かく震えているのが見えた。それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火事見物をしていなかったとしたら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、その気持は彼女の方も同じだったろうと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていて、あたたかくて親密な気分になっていて、そのことをなんかの形で残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、ある種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。
最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いにくそうに自分につきあっている人がいるのだと言った。それはなんとなくわかってると僕は言った。
「あなたには好きな女の子いるの?」
「いるよ」
「でも日曜日はいつも暇なのね?」
「とても複雑なんだ」と僕は言った。
そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。
五時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外にでて軽く食事しないかと誘ってみたが、電話がかかってくるかもしれないからと、彼女は断った。
「一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌よね。一人きりでいるとね、身体がすこしずつ腐っていくような気がするのよ。だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになってね、地底に吸いこまれていくの。そしてあとには服だけが残るの。そんな気がするわね、一日じっと待ってると」
「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつきで」と僕は言った。
「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。
*
翌日の「演劇史Ⅱ」の講義に緑は姿を見せなかった。講義が終わると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べ、それから日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐとなりでは女子学生が二人でとても長いたち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニス?ラケットを胸に抱え、もう一人は本を何冊かとレナード?バーンスタインのLPを待っていた。ふたりともきれいな子で、ひどく楽しそうに話をしていた。クラブ?ハウスの方からは誰かがベースの音階練習をしている音が聞こえてきた。ところどころに四、五人の学生のグループがいて、彼らは何やかやについて好き勝手ない件を表明したり笑ったりどなったりしていた。駐車場にはスケートボードで遊んでいる連中がいた。革かばんを抱えた教授がスケートボードをよけるようにしてそこを横切っていた。中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のアジア侵略がどうしたこうしたという立て看板を書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だった。しかし久しぶりに改めてそんな風景を眺めているうちに僕はふとある事実に気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ単にそう見えるだけなのかわからない。でもとにかくその九月の終わりの気持ちの良い昼下がり、人々は人々はみんなしあわせそうに見えたし、そのおかげで僕はいつになく淋しい思いをした。僕は一人だけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。
でも考えて見ればこの何年かのあいだ、いったいどんな風景に馴染んてきたというのだ?と僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を撞いた港の近くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまい、それ以来僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷かな空気が入りこむことになってしまったのだ。僕にとってキズキという男の存在はいったいなんだったんだろうと考えてみた。でもその答えを見つけることはできなかった。僕にわかるのはキズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠に損なわれてしまったらしいということだけだった。僕はそれをはっきりと感じ理解することができた。しかしそれが何を意味し、どのような結果をもたらすことになるのかということは全く理解の外にあった。
僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを行き来する人々を眺めて時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないとも思ったが、結局その日彼女の姿を見ることはなかった。昼休みが終ると僕は図書室に行ってドイツ語の予習をした。
*
その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来て、よかったら今夜あそびにいかないか、外泊許可はとってやるからと言った。いいですよ、と僕は言った。この一週間ばかり僕の頭はひどくもやもやとしていた、誰とでもいいから寝てみたいという気分だったのだ。
僕は夕方風呂に入って髭を剃り、ポロシャツの上にコットンの上着を着た。そして永沢さんと二人で食堂で夕食をとり、バスに乗って新宿の町に出た。新宿三丁目の喧騒の中でバスを降り、そのへんをぶらぶらしてからいつも行く近くのバーに入って適当な女の子がやってくるのを待った。女同士の客が多いのが特徴の店だったのだが、その日に限って女の子はまったくと言ってもいいくらい我々のまわりには近づいてこなかった。僕らは酔っ払わない程度にウィスキー?ソーダをちびちびとすすりながら二時間近くそこにいた。愛想の良さそうな女の子の二人組がカウンターに座ってギムレットとマルガリータを注文した。早速永沢さんが話しかけに行ったが、二人は男友だちと待ちあわせていた。それでも僕らはしばらく四人で親しく話をしていたのだが、待ちあわせの相手が来ると二人はそちらにいってしまった。
店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバーにつれていった。少し奥まったところにある小さな店で、大方の客はもうできあがって騒いでいた。奥のテーブルに三人組の女の子がいたので、我々はそこに入って五人で話をした。雰囲気は悪くなかった。みんなけっこう良い気分になっていた。しかし店を変えて少し飲まないかと誘うと、女の子たちは私たちもうそろそろ帰らなくちゃ門限があるんだもの、と言った。三人ともどこかの女子大の寮暮らしだったのだ。まったくついてない一日だった。そのあとも店を変えてみたが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りついてくるという気配がまるでないのだ。
十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんはが言った。
「悪かったな、ひっぱりまわしちゃって」と彼は言った。
「かまいませんよ、僕は。永沢さんにもこういう日があるんだというのがわかっただけでも楽しかったですよ」と僕は言った。
「年に一回くらいあるんだ、こういうの」と彼は言った。
正直な話し、僕はもうセックスなんてどうだっていいやという気分になっていた。土曜日の新宿の夜の喧騒の中を三時間半もうろうろして、性欲やらアルコールやらのいりまじったわけのわからないエネルギーを眺めているうちに、僕自身の性欲なんてとるに足らない卑小なものであるように思えてきたのだ。
「これからどうするの、ワタナベ?」と永沢さんが僕に訊いた。
「オールナイトの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観てないから」
「じゃあ俺はハツミのところに行くよ。いいかな?」
「いけないわけがないでしょう?」と僕は笑って言った。
「もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介してやれるけど、どうだ?」
「いや、映画みたいですね、今日は」
「悪かったな。いつか埋め合わせするよ」と彼は言った。そして人混みの中に消えていった。僕はハンバーガー?スタンドに入ってチーズ?バーカーを食べ、熱いコーヒーを飲んで酔いをさましてから近くの二番館で『卒業』を観た。それほど面白い映画とも思えなかったけれど、他にやることもないので、そのままもう一度くりかえしてその映画を観た。そして映画館を出て午前四時感のひやりとした新宿の町を考えごとをしながらあてもなくぶらぶらと歩いた。
歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコーヒーを飲んで本を読みながら始発電車を待つ人々で混みあってきた。ウェイターが僕のところにやってきた、すみませんが相席お願いしますと言った。いいですよ、と僕は言った。どうせ僕は本を読んでいるだけだし、前に誰が座ろうが気にもならなかった。
僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だろう。どちらも美人というわけではないが、感じのわるくない女の子たちだった。化粧も服装もごくまともで、朝の五時前に歌舞伎町をうろうろしているようなタイプには見えなかった。きっと何かの事情で終電に乗り遅れるか何かしたのかもしれないなと僕は思った。彼女たちは同席の相手が僕だったことにちょっとほっとしたみたいだった。僕はきちんとした格好をしていたし、夕方に髭も剃っていたし、おまけにトーマス?マンの『魔の山』を一心不乱に読んでいた。
女の子の一人は大柄で、グレーのヨットバーカーにホワイト?ジーンズをはき、大きなビニール?レザーの鞄を持ち、貝のかたちの大きなイヤリングを両耳につけていた。もう一人は小柄で眼鏡をかけ、格子柄のシャツの上にブルーのカーディガンを着て、指にはターコイズ?ブルーの指輪をはめていた。小柄の方の本奈子のはときどき眼鏡をとって指先で目を押さえるのが癖らしかった。
彼女たちはどちらもカフェオレとケーキを注文し、何事かを小声で相談しながら時間をかけてケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。大柄の女の子は何回か首をひねり、小柄な女の子は何回か首を横に振った。マービン?ゲイやらビージーズやらの音楽が大きな音でかかっていたので話の内容まで聴きとれなかったけれど、どうやら小柄な女の子が悩むか怒るかして、大柄の子がそれをまあまあとなだめているような具合だった。僕は本を読んだり、彼女たちを観察したりを交互にくりかえしていた。
小柄な女の子がショルダー?バッグを抱えるようにして洗面所に行ってしまうと、大柄な方の女の子が僕に向かって、あのすみません、と言った。僕は本を置いて彼女を観た。
「このへんにまだお酒飲めるおご御存知ありませんか?」と彼女は言った。
「朝の五時すぎにですか?」と僕はびっくりして訊きかえした。
「ええ」
「ねえ、朝の五時二十分っていえば大邸の人は酔いをさまして家に寝に帰る時間ですよ。」
「ええ、それはよくわかってはいるんですけれど」と彼女はすごく恥ずかしそうに言った。
「友だちがどうしてもお酒のみたいっていうんです。いろいろとまあ事情があって」
「家に帰って二人でお酒飲むしかないんじゃないかな」
「でも私、朝の⑦時半ごろの電車で長野にいっちゃうんです。」
「じゃあ自動販売機でお酒買って、そのへんに座って飲むしか手はないみたいですね」
申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子二人でそんなことできないから、と。僕はこの当時の新宿の町でいろいろと奇妙な体験をしたけれど、朝の五時二十分に知らない女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれが初めてだった。断るのも面倒だったし、まあ暇でもあったから僕は近くの自動販売機で日本酒を何本かとつまみを適当に買い、彼女たちと一緒にそれを抱えて西口の原っぱに行き、そこで即座の宴会のようなものを開いた。
話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大を出て勤めはじめたばかりで、仲良くしだった。小柄な方の女の子には恋人がいて一年ほど感じよくつきあっていたのだが、最近になって彼が他の女と寝ていることがわかって、それで彼女はひどく落ちこんでいた。それが大まかな話だった。大柄な方の女の子は今日はお兄さんの結婚式があって昨日の夕方には長野の実家に帰ることになっていたのだが、友だちにつきあって一晩新宿でよるあかしし、日曜日の朝いちばんの特急で戻ることにしたのだ。
「でもさ、どうして彼が他の人と寝てることがわかったの?」と僕は小柄な子に訊いてみた。
小柄な方の女の子は日本酒をちびちびと飲みながら足もとの雑草をむしっていた。「彼の部屋のドアを開けたら、目の前でやってたんだもの、そんなのわかるもわかからないもないでしょう」
「いつの話、それ?」
「おとといの夜」
「ふうん」と僕は言った。「ドアは鍵があいてたわけ?」
「そう」
「どうして鍵を閉めなかったんだろう」と僕は言った。
「知らないわよ、そんなこと。知るわけがないでしょう」
「でもそういうの本当にショックだと思わない?ひどいでしょう?彼女の気持ちはどうなるのよ?」とひとのよさそうな大柄の女の子が言った。
「なんとも言えないけど、一度よく話しあってみた方がいいよね。許す許さないの問題になると思うけど、あとは」と僕は言った。
「誰にも私の気持ちなんかわからないわよ」と小柄な女の子があいかわらずぷちぷちと草をむしりながら吐き捨てるように言った。
カラスの群れが西の方からやってきて小田急デパートの上を超えていった。もう夜はすっかり明けていた。あれこれと三人で話をしているうちに大柄な女の子が電車に乗る時刻が近づいてきたので、僕は残った酒を西口の地下にいる浮浪者にやり、入場券を買って彼女を見送った。彼女の乗った列車が見えなくなってしまうと、僕と小柄な女の子はどちらから誘うともなくホテルに入った。僕の方も彼女の方もとくにお互いと寝てみたいと思ったわけではないのだが、ただ寝ないことにはおさまりがつかなかったのだ。
ホテルに入ると僕は先に裸になって風呂に入り、風呂につかりながら殆んどやけでビールを飲んだ。女の子もあとから入ってきて、二人で浴槽の中でごろんと横になって黙ってビールを飲んでいた。どれだけ飲んでも酔いもまわらなかったし、眠くもなかった。彼女の肌は白く、つるつるとしていて、脚のかたちがとてもきれいだった。僕が脚のことを賞めると彼女は素っ気ない声でありがとうと言った。
しかしベッドに入ると彼女はまったく別人のようになった。僕の手の動きに合わせて彼女は敏感に反応し、体をくねらせ、声をあげた。僕は中に入ると彼女は背中にぎゅっと爪を立てて、オルガズムが近づくと十六回も他の男の名前を呼んだ。僕は射精を遅らせるために一生懸命回数を数えていたのだ。そしてそのまま我々は眠った。
十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッセージもなかった。変な時間に酒を飲んだもので、頭の片方が妙に重くなっているような気がした。僕はシャワーに入って眠気《ねむけ》をとり、髭を剃って、裸のまま椅子に座って冷蔵庫のジュースを一本飲んだ。そして昨夜起ったことを順番にひとつひとつ思いだしてみた。どれもガラス板に二、三枚あいだにはさんだみたいに奇妙によそよそしく非現実的に感じられたが、間違いなく僕の身に実際に起った出来事だった。テーブルの上にビールを飲んだグラスが残っていたし、洗面所には使用済みの歯ブラシがあった。
僕は新宿で簡単に昼食を食べ、それから電話ボックスに入って小林緑に電話をかけてみた。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人で電話番をしているのではないかと思ったからだ。しかし十五回コールしても電話には誰も出なかった。二十分後にもう一度電話してみたが結果はやはり同じだった。僕はバスに乗って寮に戻った。入口の郵便受けに僕あての速達封筒が入っていた。直子からの手紙だった。
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